グラン・ブルー感想


 土曜の夜、夏になったら見ようねと夫と話していたグラン・ブルーを見ました。ちなみに夫は初見。


 公開は1998年だそうだから21年前か。私がこの映画を初めて見たのは、確か15年ぐらい前のこと。『瞳の中の王国』(岡野史佳)という白泉社系の少女マンガのコミックスの柱スペースで、その作者が絶賛していたのを読んで、どっかで機会がないかなと探していたのです。
 その時から5年くらいの間に確か、映画館で4〜5回は見たかな。後に深夜にTVでやってたのを録画して、それはもう数えきれないほど。
 その頃から今に至るまで、「好きな映画は」と問われるとふと出てくる。そういう作品。


 2015年前、この映画にはまり始めた頃、人に問われると私は「イルカと潜る人の話、或いは間違って陸に生まれた男の悲劇」と説明していた気がする。
 10年前に完全版を見た頃には、ちょっと違ってた。悲劇というよりこれは、逃れられない運命というか、業のようなものを描いているのではないかと。そういう風にしか生きられないってことが、あるということ。そのことを。
 そして先日見た時には、またもうちょっと違うことを考えた。


(20年以上前の作品だからネタバレを気にすることもないんだろうけど、一応。この先ちょっと、作品の内容に触れます)


 主人公のジャックは「やっと手に入れた」はずの家族や愛情を、結局は自ら捨てて海へ還っていくんだけど。
 客観的に見ればこの行為は、身勝手極まりない。私がジョアンナでもその友人でも、やっぱり怒ると思う。
 そのかなしさを昇華するために、ジョアンナは最後、「Go…Go and see my love.」と言う。これは彼の行動を自分の裡に取りこもうとする、一種の適応機制みたいなものなんだろう。
 この台詞すごく好きだったんだけど、いま見るとなんというか、微妙に恐ろしさも感じる。
 ジャックはもうジョアンナを見ていない。当然、その愛も。だから行こうとするし、そのことがジョアンナにわかっていないはずもない。
 けれど最後に。どうしても行こうとする、あまつさえ引き金を引かせようとすらする彼に。今も愛するその人に。
 言ってあげられるのは、やっぱりその言葉なんじゃないかと思う。絶対に届かない、響かないとわかっていても。
 この圧倒的なすれ違いが、なんだか恐ろしいなと思うのです。


 そしてもうひとつは、ジャックの生き方について。
 エンゾは家族と愛情の大切さをくり返しジャックに説く。彼から見ると、ジャックに欠けているのは正にそれなんだろう。ジャック自身も、そう思っていただろうし。
 けれど結局、ジャックは海へ還る。自分に必要なたったひとつのものはそこにある、と確信して。
 「普通」や「メジャー」がなんと言ったとしても、そのことに自分自身が納得してすらいても。自分の求めるもの、必要なものは、結局自分にしかわからない。それも「そう感じる」というあやふやな方法でしか。
 与えるどころか、誰も教えてはくれないんだよ、と。
 そういう話なのかなと、今回は感じました。


 同じ本を時間をおいて何度も読むと、受けとることの違いが自分自身の変遷を見せてくれるって話、最近どっかで見た気がするけど(あ、思い出した。山田詠美氏の『無銭優雅』だ)。
 そんな感じ。だんだん自由になるみたいで、面白い体験でした。